(スペインのソフィア王妃芸術センターに展示されていた’Woman in Blue)
パブロ・ピカソ。
その名を知らない者はいない、20世紀最大のアーティスト。
「オトナのピカソ」というウェブサイト名にも彼の名前を入れさせてもらっただけあって、彼のことを取り上げないわけにはいかないと思い、これから続く「ピックアップ・アーティスト」の第一弾に彼を選びました。
わたしもこれまでに絵画から陶芸まで、パブロ・ピカソの作品は世界の様々な美術館で見てきましたが、彼の先鋭的な芸術スタイルにはいつも刺激をもらいます。愛人とのスキャンダラスな関係など一般的に破天荒な人生として知られていますが、ピカソが生み出した新しいアートの形となったキュビスムは、彼のどんな新しいものにも挑戦していくという好奇心と行動力なくしては誕生しなかったもので、私はとてもリスペクトしています。
パブロ・ピカソという奇才をわたしももっともっと知りたくて、今回の記事を書くことにしました。一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
ちなみにイギリスの美術館、Royal Academy of Art のピカソが絵を描いている様子がわかる、私の好きな動画はこちら。彼が自由に絵を描いている姿はどういうわけか色気を感じさせます。
・パブロ・ピカソとは一体どんな人物か、カンタンに。
1881年10月25日にスペインのマラガで生まれ、1973年4月8日にフランスのムージャンで91歳の長い人生に幕を閉じる。生涯に、1,800点以上の絵画、4,000点以上の彫刻と陶器、約12,000点のデッサン、数千点の版画、さらにはタペストリーやラグ、舞台美術などの制作活動も行い、生涯で最も作品を残したアーティストとしても知られています。
絵の教授であった父親の影響もあり、幼い頃から高い画力を持っていたピカソは、スペインからフランスに拠点を移し制作活動を行います。貧困生活と友人の自殺という辛い経験から生まれた青の時代の作品(青の配色がメインの作品)から、新しい拠点パリで生まれた薔薇色の時代の作品(明るい色調の作品)を経ると、それまで主流であった対象物を見たままに描く手法から逸脱し、キュビスムやコラージュという革新的な絵画の手法を切り開き、後世に多大な影響を与えていきました。世界大戦中もフランスのパリで制作活動に励み、そして生涯で2度の結婚とその他多くの女性と愛人関係を持った恋多き人生は、彼の作品に大きな影響をもたらしました。
・ピカソのフルネームとサイン
ピカソのフルネームは、
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリーア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
というとても長い名前。1878年に亡くなった父方の叔父、カノン・パブロ(ルイス・ピカソ)の名を取りパブロと呼ばれ、また、ピカソの誕生日である10月25日を祭日とする2人の靴職人の聖人の名をとり、クリスピン・クリスピニアノと呼ばれました。ルイスとピカソは、それぞれ父と母の姓です。少年時代のピカソはパブロ・ルイスと呼ばれ、初期の絵画には「P. Ruiz」とサインしています。20世紀に入ってからは、絵画やドローイングにP.R.Picassoを使用していましたが、1901年後半以降、シンプルなPicassoというサインに落ち着いています。
・パブロ・ピカソの代表作 5 作品
1. ゲルニカ(Guernica)/ 1937年 / マドリード ソフィア王妃芸術センター所蔵
ゲルニカはスペイン北部にある町の名前で、スペイン内戦中の1937年4月26日、スペイン国民党の要請により、ナチスドイツとファシストイタリアの軍用機によって爆撃されました。ピカソが<ゲルニカ>を描いたのは、ゲルニカの地を壊滅させたことへの反発からでした。この作品はスペイン内戦が世界的に注目されるきっかけとなり、歴史上最も強力な反戦絵画のひとつとされています。
キャンバスの左手には、目を見開いた雄牛が、死んだ子供を抱いて悲しむ女性の上に立っています。中央には、武器で殴られたように苦しそうに倒れている馬が描かれています。馬の下にはバラバラになった兵士、その右には窓から入ってきたようなおびえた女性の姿があります。右手には、畏敬の念を抱いた女性が中央に向かってよろめきながら歩いています。(雄牛と馬は、スペイン文化における重要なシンボル)
現在、<ゲルニカ>はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されています。私も実際に絵画を見ましたが、写真では伝わらない大きなキャンバスに描かれた、モノクロの悲惨でありながらも抽象的描かれた絵画が、そのピカソの故郷に対する悲痛な思いをうかがい知ることができた気がします。マドリードに訪れたときには絶対に訪れてみてください。
2. アヴィニョンの娘たち (The Young Ladies of Avignon) /1907年 / ニューヨーク近代美術館所蔵
当初は売春婦と客の男性を描いた売春宿の風景を描くつもりであったものの、時間が経つにつれて(この絵の完成に2年の歳月が費やされました)、抽象的、コラージュ的なスタイルにシフトし、革新的な本作を完成させました。この絵は、絵画上で複数の視点から再構成する「キュビスム」の原点とされています。
ピカソが本作を発表した当時は、娼婦という題材とこれまでになかったスタイルであっただけに物議を醸し、大きな酷評を受けます。実際に、この革命的であった作品が芸術の世界で評価されるまでには時間がかかりましたが、今日、<アヴィニョンの娘>は美術史において重要な絵画の一つとしてみなされているのは紛れもない事実で、芸術が時代とともに進化し、それまでの芸術界の観念や許容範囲を広げ、ピカソに続く画家たちの表現に新たな道を切り開いた作品でした。
現在は、ニューヨーク近代美術館に所蔵されています。
3. 泣く女 (The weeping woman) / 1937年 / ロンドン テート・モダン所蔵
<泣く女>は、先ほどの<ゲルニカ>の続きの作品とされ、ゲルニカは戦争による破壊の生々しさを描いていたのに対し、本作品では、ゲルニカの絵の中の死んだ子供を抱く女性に焦点をあてて描いています。泣く女シリーズはピカソの連作で、本作は同シリーズの中でも最も手が込んでおり、そして最後に描かれた作品でした。
<泣く女>シリーズに描かれた女性のモデルは、1936年から1944年まで愛人であったフランスの写真家であり画家のドーラ・マールで、マールは、ピカソにとって主要なモデルであり、またピカソの人生に最も影響を与えた人物のひとりでした。ピカソの愛人関係に悩まされていたドラ、そしてそんな苦しむドラを長い間描きつづえたピカソ。ピカソは、苦しむドラを描くことを、サディズムでも悦びによるものでもない、ただ私に無意識に強制されたビジョンにしたがって描いているだけだった。そこには表層的でない深い現実があり、ドラはピカソにとって常に”泣く女”であったと語っています。
4. 老いたギター弾き (The Old Guitarist) / 1903年
本作は、ピカソが貧困による苦しみと、親友カサゲマスの自殺によって悲痛にさいなまれた通称「青の時代」(1901年〜1904年。このあと詳しく解説します。)に描かれた作品です。バルセロナの街で見かけた、老いた身体を湾曲させて大きなギターを抱えた盲目の男の姿が描かれています。この時期の苦痛な感情を青色のパレットで表現し、悲劇的で哀しいテーマをより際立てています。
1998年に赤外線カメラによって、構図の中央に座っている若い母親が、左腕を右手にひざまずいている子供に伸ばし、母親の左手には子牛か羊がいることを発見されており、これはキャンバスを購入するお金がなかったために古い絵の上に描いていたからと言われています(下画像)。
のちに、ピカソは青の時代の作品を悲観的に振り返っていたものの、この時代の作品は現在でも高い人気があり、中でも「老いたギタリスト」は青の時代を代表する最も有名な作品です。
5. 鏡の前の少女 (Girl before a Mirror) / 1932年 / ニューヨーク近代美術館所蔵
鏡の前の少女は、1927年から1935年頃まで、パブロ・ピカソの愛人兼モデルであったマリー・テレーズ・ウォルターを描いたもの。若き日のマリーは、1930年初め頃のピカソの好きな被写体の一つでした。本作品は、左側では化粧をして美しく着飾った彼女が、右側では暗くなった顔、丸くくぼんだ目、歪んだ女性らしい体の女性が描かれています。この絵は評論家の間で様々な解釈がなされており、マリーの昼と夜の姿を表していると考える人もいれば、鏡越しに自分の最後の運命を暗示し、死と直面している姿を描いていると捉える人もいます。また、無垢な少女であった彼女が自身のセクシュアリティを自覚し、世俗的な女性へと変化したことを意味しているという意見もあります。
男性器と女性の身体を同一視した表現(女性の胸は睾丸に転換されている)は、この当時描いた他の絵画や彫刻に見られる特徴です。
・パブロ・ピカソについて、もっとくわしく – 幼少期から晩年まで
1. 少年期
パブロ・ピカソは、絵の教授であったホセ・ルイス・ブラスコとマリア・ピカソ・ロペスの間に生まれます。1891年に一家が移り住んだア・コルーニャの地で父の弟子となり、彼の絵に対する並外れた才能は10歳頃から開花されていました。その時から学んだことを実際に試したり、新しい表現方法を編み出したりするなど好奇心が旺盛だったピカソは、あっという間に父の能力を超え、13歳の時にはすでに初個展に向けてモデルやサポートを提供した。
1895年に、家族はバルセロナに移り、パブロは、父が就職した地元の美術学校に入学。アカデミックな画家として成功してほしい家族から希望されていたピカソは、マドリードの美術展で次々と賞を獲得していきます。
家族の希望に応えるために1897年にはマドリードに移ってサン・フェルナンド王立アカデミーに入学するものの、授業を退屈に感じたピカソは、カフェや街角、売春宿、そしてプラド美術館などで時間を過ごすようになります。このときにプラド美術館などでゴヤたベラスケスなどの名作を模写していた経験などが後のピカソの作品に影響していきました。
1898年、猩紅熱(しょうこう熱)という病気にかかったピカソはカタルーニャ地方のホルタ・デ・エブロという村で1年ほど療養生活期間中に美術学校を中退します。翌年の1899年にバルセロナに戻ると、「Els 4GATS(四匹の猫)」というカフェに通い、パリを夢見るカタルーニャの芸術家や作家たちと交流を深めました。
1900年、バルセロナで自身初の個展を開き、50点以上の肖像画(ミックスメディア)を展示。この時に描いた作品が同年に開かれたパリ万博のスペイン部門に出展されることになります。そして、カフェでパリの話を常日頃から聞いてきたピカソは、自分自身の作品をパリの地で見たいと思い、アトリエ仲間のカルレス・カサゲマスらとともにパリに出ることを決意するのでした。
2. パリでの新たな発見
パリへ最初の旅(10月から12月)に出たピカソは、これまでスペインでみてきた薄暗く、くすんだカラーとは一転、鮮やかでファッショナブルなカラーを使った絵画に出会います。フィンセント・ファン・ゴッホの作品もその一つでした。木炭やパステル、水彩画、油絵さまざまなミディアムを使ってこのパリ滞在の記録を残していきます。
2ヶ月の滞在を終え、失恋をしていたカサゲマスとともにバルセロナに戻り、ピカソは雑誌の編集者として働くことになります。しかし、愛していた女性に会いにパリに戻ったカサゲマスが銃で自殺したことを知ったピカソは、大切な友人をなくしたこと、自分が助けてあげられなかったことに深く哀しみ、その辛い経験がこのときの作風に影響を及ぼしていくのでした。
3. 青の時代(1901年~1904年)
親友を亡くし、思ったほどの収入もなく余裕のない生活を強いられた19歳のピカソは、その鬱屈した心情を青のカラーと、社会から逸脱した人物を被写体にして絵画に投影していきます。1901年から02年にかけてパリの女子刑務所を訪れた経験から描かれた作品や、1902年から03年にかけてバルセロナの路上生活者、盲人、孤独な乞食など描いた作品を残しましたが、そのような題材は当時の芸術シーンでは受け入れられず、困窮生活に拍車をかけることとなります。
4. 薔薇色の時代(1904~1906年)
1904年の春、ピカソはついにパリに移り住み、1904年末には、フェルナンデ・オリヴィエを愛人に持ったことで、ピカソの環境が大きく変化していきます。これらの環境の変化によってピカソの絵画に大きく反映され、ピンクやオレンジなどの明るい色を使用した絵画が多く残されるようになり、旅回りのサーカスやサルタンバンク(旅芸人・下画像参照)を題材にした絵が描かれていきます。
5. アフリカ彫刻の時代(1906年~1908年)
次第にピカソは、アフリカ彫刻や古代イベリア彫刻の影響を強く受けていきます。この頃に描いた<アヴィニョンの娘たち>の仮面のような顔は、アフリカ美術からインスピレーションを得たものでした。
6. キュビスムの時代 ( 1907年~1921年)
アフリカ美術とはまた別に、ポール・セザンヌの絵画に魅せられるようになったピカソは、新たな友人のジョルジュ・ブラックとともに、セザンヌの絵画の要素を作品に取り入れるようになります。<アヴィニョンの娘>もポール・セザンヌが描いた<大水浴>の全体的な構成が反映されたものでした。1909年のピカソの静止画などの作品は、浅く、平面的な空間の描き方が特徴で、評論家や鑑賞者には単なる幾何学的な芸術であると捉えられていました。この時代を今ではピカソの初期キュビスムの時代されています。
その後の数年間(1909年~1912年)、ピカソとブラックは共同で制作作業を行っていきます。写真の普及もあり当時のヨーロッパ絵画では、ルネッサンス期以降に見られていた、「遠近法を利用して目に見えるものを忠実にキャンバスに再現する」という考え方を改めて見直すようになっていきます。そしてピカソたちは、一つのキャンバスに複数の視点を取り入れて描くという革新的なキュービズムという技法を生み出し、それはまさしく新しいリアリティの表現方法の推奨でした。ピカソもブラックも完全なる抽象的な絵画を描くことを目指していたわけではなく、同じキャンバス上に抽象的な要素と具象的な要素を一つの絵画に取り入れることで、二次元的な要素が提唱することを再検討していったのです。この時期は分析的キュビスムの時代と呼ばれ、再び黄土色や、茶色、グレーなどのダークなくすんだカラーが好んで使われるようになりました。
1912年には、紙や新聞紙のような印刷物や壁紙などキャンバスに取り入れるコラージュを積極的に行うようになり、この時代は総合的キュビスムの時代と呼ばれています。これは、作品を自己完結的な構築物として捉えるキュビスムの考え方を、さらに発展させたもので、明るい色の使用が復活し、遊び心のある装飾的な作品が生まれるようになっていきます。
第一次世界大戦によりブラックは徴兵され、他の仲間も中立国に逃げる中、ピカソはフランスに留まり絵を書き続けます。この時期に出会った、詩人ジャン・コクトーが企画するバレエ団、バレエ・リュスとの演劇イベント『パレード』(サーカスの余興を題材にした演目)で、舞台装置や衣装のデザインを担当することになります。コクトーとローマに旅行に訪れた際に、パレードのバレエダンサーでのちの妻となるオルガ・クルロバと出会います。またこの旅行でルネッサンスやバロックの美術に影響をうけた作品を生み出すようになります。
7. 新古典主義とシュルレアリスム (1919–1929年)
初のイタリア訪問や第一次世界大戦の終結を受けて、1919年から1929年の間、ピカソの絵画は新古典主義へと変化していきます。水彩画「Sleeping Peasants」(1919年)など、芸術の秩序回復を反映した作品は、ずっしりとした重量感のある身体などが特徴的でした。しかし、1920年代半ばにフランスでシュルレアリスム運動が盛んになると、ピカソはその影響を受けた「3人の踊り子」(1925年)などの作品で、初期キュビズム時代の作風を取り戻していきました。
8. ゲルニカの誕生 – 1930年代
1927年、46歳のピカソは、スペインから来た17歳の少女、マリー・テレーズ・ウォルターと不倫関係になり、彼女との間に娘マヤを出産。彼女をモデルにした作品を多く残していきました。(代表作の<鏡の前の少女>もその一つ)
しかし、1936年に芸術家であり写真家でもあるドラ・マールと関係を持ち、マリーと破局。ドラはシュルレアリストの写真家として独立し、スペイン語も話せた知的な女性で、ゲルニカの制作にも立ち会い、その過程を写真に記録してました。また、<泣く女>のモデルになった人物でした。
1937年に、ピカソはスペイン内戦を暴力性を反映して描いた「ゲルニカ」を完成させます。威嚇するミノタウロスは、初期の頃のハーレクイン(イタリアの即興喜劇コメディア・デラルテに登場するキャラクター)に代わって、彼の芸術の中心的なシンボルとなりました。
9. 第二次世界大戦、そして陶芸に魅せられた戦後のピカソ
第二次世界大戦中、ピカソはドイツ占領下のパリに留まり芸術作品の制作を続けます。その間、詩を書くこともあり、1939年から1959年の間に300以上の作品を完成させました。また、”Desire Caught by the Tail “と “The Four Little Girls “という2つの戯曲も作り上げます。
1944年にパリが解放されると、この時63歳のピカソは21歳の画家志望のフランソワーズ・ジローと愛人関係になり、1947年には息子のクロード、1949年には娘のパロマを出産。しかし、ピカソの横暴な態度に耐えきれなくなったジローは子供を連れてピカソのもとを去っていくことになります。
第二次世界大戦が終わって間もない1946年に、南フランスのヴァロリスに陶器の展示会を訪れたピカソはマドゥーラ窯の職人たちが作った作品に感銘を受けます。オーナーのスザンヌ & ジョルジュ・ラミエ夫妻の紹介で工房に迎え入れられ、必要なすべての道具や資材を与えられて陶芸活動をはじめました。地元の陶芸家たちとの共同作業は25年にも及び晩年まで続くこととなりました。
また、ピカソは彫刻にも力を入れ、1949年にはフィラデルフィア美術館で開催された国際展に参加。その後、依頼を受けて「シカゴ・ピカソ」と呼ばれる彫刻を制作し、アメリカの都市に寄贈しました。
1961年、79歳のピカソは、2番目で最後の妻である陶芸の窯で働いていた27歳のジャクリーヌ・ロックと結婚。ピカソが亡くなるまでの17年間に、70点以上の彼女の肖像画を制作します。
10. ピカソの晩年
ピカソは人生の終わりに近づくにつれ、創作活動を活発化させていきました。そのときの作品は、これまでの彼のスタイルがミックスされたもので、カラフルな絵画や銅版画などが多く見られました。
以上です。ピカソの生涯を時間を掛けて紐解いてきましたがいかがでしたでしょうか?
革新的な芸術作品を生み出し、後世に多大な影響を与えてきたピカソがどういう歴史を辿ってきたのかを知ると、もっと彼の作品の鑑賞が楽しくなると思います。
イギリス、ロンドンにはテートモダンやテート・ブリテンに作品が展示されていますので、ぜひチェックしに行ってみてくださいね。
参考文献
https://www.britannica.com/biography/Pablo-Picasso